プロジェクトやチームを管理するようになって疑問や不満に思ったことです。
その日の勤務時間は8時間。ですが、会議に使った時間が合計4時間半。
実際に手元のタスクに使えた時間は、わずか3時間半でした。
一方、自分の担当タスクに使えた時間はわずか3時間半。
ToDoリストはほぼ動かず、でも“今日はちゃんと働いてたよね?”という気持ちが残る日が多いです。
実はこれ、エンジニアやPM界隈では「あるある」な光景じゃないだろうかと思います。
けれど、その日記録した工数は「3.5時間」。
「いやいや、もっと働いてたでしょ」と思っても、会議や打ち合わせは“見えないタスク”として工数表からは抜け落ちがち。
その分、遅れた分をどこで取り戻すかといえば──結局は“残業”。
どうして会議の時間って、こんなに軽く扱われるのでしょうか。。。
工数=「手を動かす時間」という誤解
工数という言葉を耳にすると、多くの方は「実際に手を動かした時間」を思い浮かべるのではないでしょうか。
たとえば、コードを書く時間や資料を作る時間など、目に見えるアウトプットに紐づいた作業です。
しかし、実際の業務では、それ以外にも多くの時間が費やされています。
- 仕様を理解し、考えを整理する時間
- 技術的な調査や、他チームとの情報確認にかかる時間
- 打ち合わせや1on1などのコミュニケーション
- メールやチャット、電話でのやりとり
- 作業成果の検証・レビュー・フィードバック対応
- オフィスや打ち合わせ場所への移動時間
これらは一見すると「作業」には見えにくいかもしれませんが、すべてがプロジェクトの一部です。
さらに、突発的なトラブルが起きたときの対応や、他のメンバーのフォローなど、予定外の業務も発生します。
また、安定して業務を続けるためには、適切に休憩を取り、心身のコンディションを整えることも欠かせません。
こうした時間はしばしば「見えないもの」として扱われがちで、工数に含めることを遠慮したり、記録しそびれたりしてしまいます。
ですが、本来はこれらすべてを含めて「仕事」なのだと思います。
見えるかどうかに関係なく、時間には確かな意味があります。に進める「燃料」になっている。
それなのに「工数には入れづらい」「なんとなく後ろめたい」とされてしまう現実。
この「工数=手を動かす時間」という誤解こそが、現場の計画と実態を大きくズラしているんじゃないかと思う。解が、現場のすれ違いと疲弊を生む原因の一つであると、私は思っています。
会議の質がグレー=価値が不明確
会議に参加したあと、「これは本当に必要だったのだろうか」と感じることがあります。
明確な目的が見えにくかったり、発言する機会がなかったり、結論が曖昧なまま終わってしまったりすると、その時間の意味を見出しづらくなります。
会議は複数人の時間を同時に使う、非常にコストの高い活動です。
しかし、その「効果」がすぐに数字や成果物として表れないため、工数として扱われにくい傾向にあります。
また、「参加しただけで特にアウトプットがなかった」「自分が話す必要はなかった」といった場合、なんとなく“サボっていた”ように見なされてしまう空気もあります。
ただし、すべての会議が不要というわけではありません。
プロジェクトを円滑に進めるためには、認識のすり合わせや方針の確認、リスクの共有など、人と人との意思疎通が欠かせません。
それらを丁寧に行う場として、会議は必要な時間です。
問題は、その価値が見えにくく、あらかじめ「必要なコスト」として見積もりに組み込まれていないことです。
そのため、結果として他の作業時間を圧迫し、後から無理をする構造が生まれてしまいます。
文化的な“見えない労働”の軽視
日本の職場文化では、とかく「見える成果」が重視される傾向があります。
アウトプットが形として残る仕事ほど評価され、そうでない業務は「手間」として扱われてしまうことがあります。
たとえば、調整や根回し、関係者との連携、資料の整備──
これらは直接の成果ではないかもしれませんが、プロジェクト全体を円滑に進めるために欠かせない作業です。
特定の誰かに割り当てられているわけではなく、「気づいた人がやる」構造になっていることも多く、なおさら見えづらくなります。
その結果、「自分は忙しいのに、稼働率が低く見える」と感じてしまう場面もあるのではないでしょうか。
これは、“見えない労働”が正当に評価されていないことに起因していると考えています。
本来は「全時間が工数」になるべき
仕事とは、本来「目に見える成果」を出す時間だけではありません。
考える時間も、準備する時間も、周囲と関わる時間も、すべてがプロジェクトの一部です。
会議も、レビューも、調整も、そして休息も、
私たちが日々積み重ねている業務活動は、すべてが意味を持っています。
にもかかわらず、それらをあらかじめ工数として見積もっておかないと、計画は破綻し、現場の負荷だけが増えていくことになります。
そのような構造を変えるには、「見えない時間にも名前をつけてあげる」ことが必要です。
“工数”という言葉の定義を、もう少しだけ広げて考えてみる。
それだけでも、働くことに対する見方が、少し優しくなるような気がします。
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